2011年7月1日〜15日
7月1日 マキシム 〔クリスマス・ブルー〕

 ヒロに追い出すつもりはない、と告げてしまうと、おれはなぜか脱力した。
 怒るのにも疲れてしまったという感じだ。
 なにも解決していないが、この問題をいい加減放棄したいような、乾いた気分になった。

 CFの中庭でなんとなく放心していると、

「相席、いいかね」

 背の高い、がっしりした初老の男が見ていた。おれは立ち上がる気にもなれず、あいまいにうなづいた。50歳、いや、60ぐらいか。たまにこういう渋い年齢の犬がいる。
 老犬は言った。

「なにか悲しいことでもあったかね」


7月2日 マキシム 〔クリスマス・ブルー〕

 かなしいこと、と言われ、おれはおどろいた。
 不意に無防備になった。
 老犬は言った。

「元気のない目をしているから気になってな。ご主人につらい目に遭わされたか」

 やさしい言葉に、思いがけなくも強い悲しみが突き上げた。からだが震え、涙が出た。
 自分でもおかしいと思いつつ、初めて会う男の前で、泣き出してしまった。

 悲しい。おれは悲しい。愛も友情も信頼も消えて、孤独でつらい。
 老犬はナプキンを差し出した。

「ずっと我慢してたんだな」


7月3日 マキシム 〔クリスマス・ブルー〕

 おれは泣きながら、見ず知らずの男に話した。愛していた男に、主人を間男されたというみっともない話を。

「おれもわかってる。ヒロにも伯爵を愛する権利はある。好き嫌いの世界に身分の理屈なんかない。彼らがつるむことにしたなら、おれは引かなければならない。おれは負けたんだ」

 話すうちに、自分の怒りと悲しみの核心が少しずつ見えてきた。
 おれが怒っていたのは、おれになのだ。負けたおれに、なのだ。
 老犬は言った。

「そんなに責めちゃあ、おまえ、つらいだろうよ。苦しいだろうよ」


7月4日 マキシム 〔クリスマス・ブルー〕

 泣くうちに、ひどく無力感を味わった。
 おれなど、なんでもない、薄汚い奴隷だ、というなじみのみじめさが浮かび上がってきた。

 いつも見ないようにしている暗い部分。おれは性奴隷だ。裸で、犬のように首輪をつけ、尻の穴を見せて歩き、男の欲望を満たす。

 もはや無理強いされているとはいえない。それを受容し、快としている痴れ者だ。ちっぽけな薄汚い犬。伯爵が、ヒロが心移りしたからとて、どうしてとがめられよう。

「待った待った」

 老犬はやさしく止めた。

「もう、自分を殴るのはおよし」


7月5日 マキシム 〔クリスマス・ブルー〕

 老人はウェイターにアイスショコラをふたつ頼んだ。ショコラがくると、おれに勧め、

「さあ、坊や。もう自分を殴っちゃいかん。きみはボロボロだ。それ以上やると病気になってしまうぞ。少し自分を健康にする方法を考えようじゃないか」

 おれはまた洟をすすった。

「どうしたらいいのか、皆目」

 今まではつらい時にヒロがいてくれた。黙って抱いて、なだめてくれた。ひとりでは、おれは赤ん坊みたいだ。どうしたらいいのか。
 老犬は言った。

「最近、気分のよくなることをしたことあるかね」


7月6日 マキシム 〔クリスマス・ブルー〕

 おれは思いつかなかった。気分は一貫して最悪だった。そう言うと、老犬は濃い笑い皺をつくり、

「いや、きみはその犬を怒りに任せて売り戻すことはしなかった。そんな自分を美しいと思わんかね。売り戻していたら今はもっと地獄にいたはずだ」

 老犬は言った。

「たぶん、当分はいやな気分はおさまらないだろう。大怪我だからな。だが、少しずつ怪我だらけの自分を健康にしていくことはできる」

 彼は帰る時間だと言って立ち上がった。

「どうやってだ?」

 おれは聞いた。


7月7日 マキシム 〔クリスマス・ブルー〕

「簡単。迷った時に、誇らしい気分になる方をやるんだよ。また話そう」

 彼は微笑んでいい、中庭を去った。
 おれはしばらくぼんやり座っていた。思考はなく、夢のなかにいるような無音の意識のなかに浸っていた。

 少しして、ドムスに戻った。
 キッチンでヒロが冷蔵庫を開けているのを見た。

 パンツ一枚で、頭に寝癖をつけている。目は寝腫れて、ずっと咳をしていた。彼は水のボトルをとると、黙って部屋に去った。

 今日は使用人のいない日だ。風邪ひいてひとりで寝ていたらしい。


7月8日 マキシム 〔クリスマス・ブルー〕

 おれは迷った。まったく理に合わないことだ。被害者たるおれが、やつに甘い顔を見せるなんて。

 だが、どうしても放っておけなかった。老人が言った、誇らしい方は、彼を無視し続けることではなかった。

 おれは彼の好きな日本のそうめんを茹でた。水でさらして、冷たくして器に盛った。
 部屋にもっていくと、彼の部屋は洟をかんだティッシュだらけだった。いつから臥せっていたのか。
 やつはおれを見て、飛び起きた。

「マキシム!」

「ソウメンと薬」

 ヒロは呆然とトレイを受け取った。


7月9日 マキシム 〔クリスマス・ブルー〕

 おれはジムであの老犬と会った。

「名前をきかなかったから、探すのに苦労した」

 彼はルノーだ、と名乗り、笑った。

「いいニュースのようだね」

 おれはヒロにそうめんを作ってやったことを話した。ヒロが食べながら号泣したこと、おれも怒りなどどうでもよくなり、気持ちがほがらかになったことを話した。

「ただ、前と同じ気分にはならないんだ。彼を愛してる。でも、どこかで、こいつはまたやるかもしれないって不信感は消えてない」

「いいのさ。前と同じじゃなくて」

 ルノーは笑った。「ここからさ」


7月10日 マキシム 〔クリスマス・ブルー〕

 ルノーはマシンで足を鍛えながら、話した。

「わたしと連れ合いはもう20年ぐらいの仲なんだ。むこうが政治家になんかなったからおおっぴらにつきあえなくてね。

 喧嘩もしたし、それこそきみと同じような裏切りもやられたし、やった。そのたびに傷つき、修復し、たがいに理解しあってきた。今でもたまに、滅入るようなことをやられるよ。

 だが、こっちも強くなった。むこうもな。事件があるたびに、発見もある。つきあいは無傷がいいというわけじゃないさ」


7月11日 マキシム 〔クリスマス・ブルー〕

 おれとヒロはまた前と同じようになごやかに暮している。夜も結局、許し、また彼と寝ている。

 だが、たしかにおれの中で愛情は少しかたちを変えた。
 ヒロには仔犬のように慕ってくるけなげな恋人という面に、いつ人にさらわれるかしれない娼婦の面が加わった。

 そして、そうめんを食べながら後悔に泣き崩れる、バカなかわいい罪人の面が加わった。

 そうした愚かさを、おれは今、可愛く思える。
 こういう気分は悪くない。




7月12日 遊佐 〔通訳スタッフ・未出〕

 仔犬の手サロンの整体術は、日本の加藤静男先生の加藤整体術をもとにしています。

 加藤先生の名はすでに日本国はもとより、欧米でもゴッドハンドとして知られていましたので、ヴィラが先生を招き、直接指導にあたっていただいたのです。

 十年ほど前、先生ははじめてアフリカにいらっしゃいました。

 来た当時はたいへんご立腹だったのを覚えています。


7月13日 遊佐 〔未出〕

 わたしは先生の通訳と案内役を勤めさせていただきました。

 先生はほとんど騙されたかたちで連れてこられたので、初顔合わせの席は荒れました。

「だれが教えてやると言った? わたしは犯罪組織に手を貸すつもりはない。誰ひとり教えるつもりはない」

 たとえ殺されても、家族を殺されても、協力しない、とはげしく言われました。

 サロン管理者のゴドー氏はたいへん先生を尊敬していたので、へこたれませんでした。


7月14日 遊佐 〔未出〕

 これは脅迫ではないということ、納得しなければその時は日本に送り返すことを告げた上、

「どうかしばらくご滞在いただき、もう一度お考えいただきたい」

 と決断を預けました。

 先生はお怒りでしたが、活動的な方でした。

 二日は辛抱したものの、やはり篭城に飽きたらしく、三日目にはあちこち見てまわるようになりました。

 先生はもちろん同性愛者ではありません。男だらけのSMの町にはすっかり呆れておいででした。


7月15日 遊佐 〔未出〕

 仔犬館、成犬館、地下をお見せしましたが、いささかカルチャーショックを起こされたようです。

「遊佐くん」

 先生はげんなりされ、

「あのはだかの連中は、ああされることがうれしいのかい」

「うれしがっているのと、そうでないのがいますよ」

 地下のカフェで先生にコーヒーをすすめ、わたしはヴィラの奴隷調教のシステムについて説明しました。
 先生は何度もいたましげに首をふり、

「むごい」

 と言われました。


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